前回の記事「『なぜ地方で暮らしたいの?』という問いを大事にしよう:地方型フリーランスとして働くために(1)」からの続きです。
地方で暮らすことを考える際に、自分の考える暮らし方が「田舎肯定型」と「都市否定型」のどちらに近いのか分類してみようということを述べました。
実際に私はどんなことを考えて地方で暮らすことを決心したのかを語ってみたいと思います。
小さな頃は「都市否定型」だった
私は福岡県の北九州市で、それぞれ鹿児島と大分から出てきた父母の間に生まれました。
なのでたまに帰る田舎はあるけれど、自分にとっての本当のふるさとってなんだろうなと思いながら小さな頃から過ごしていました。
家はちっちゃなマンションの一室で、自治会と言うよりは寄り合いみたいな大人の集いがあり、小高い山の麓なのでそれなりに遊ぶ自然もあり、ツツジの花の蜜を吸いまくったりザリガニやフナをつかまえたりと、都市の片隅にあってかなり田舎臭い環境でした。楽しいことも多かったですが、私自身極端な運動音痴だったので、まっすぐ育つことはできなかったなあと思ってます。
子供の世界って運動ができないとどうにもならないし、そこでできる上下関係は覆しようがないのでそんな場所に長居することはできなかったですね。もっと閉鎖的な田舎で育っていたらもっとしんどかっただろうなと思う部分もありつつ、かと言って福岡や東京といった都会で働くという印象もありませんでした。
都会というものは本当に人々から吸い上げた利益で回っている機械だと思い込んでいました。
例えば一回だけ家族でディズニーランドに行った時に、ホテルのバイキングでオレンジジュースを飲んでいると当時盛んだったアフリカの飢饉のニュースが頭に浮かんでしまい「こんな豪華すぎるのは駄目だ!」と思ってしまったり、そんな記憶が今も鮮明に残ってます。
今はバイキングも抵抗なく食べられますけれど、子供の頃は相当ナイーブだったんでしょう。成長する中でナイーブすぎても生きていけないなという諦めを受け入れて、少しお利口になってしまったのかもしれませんね。モヤモヤしてました。
中学の頃に聞いて、ずっと大事にしている曲があります。
「東京から少し離れたところで暮らし始めて」という一節がずっと気になっていて、そこからイメージする暮らし方が頭に浮かんでいました。
この曲、実は東京から千葉県の柏のあたりに引っ越したという曲で、その近さにびっくりするのはずっとずっと後の事なんですけれど。
東京はどうしても気になるし、働いて金を稼ぐためには必要な場所。でも暮らすのは「少し離れた場所」になるんだろう、でも「少し離れた場所」ってどこだよ?って悩んでいましたね。
時代が「田舎肯定」へ意識を変えた
こんな面倒なことを考えてしまう私は田舎にも都会にも行けないから、いろんな地方都市を回りながら暮らすのが性に合っているのかなと考えていました。極端な「田舎肯定」にはなれず、現状の都市は否定しながらも都市的な暮らし方を求めていたということになるでしょうか。そんな気持ちに正直なのか、中学・高校で久留米、大学は京都、就職は岐阜市と結構いい感じの地方都市を回って暮らすことができました。
歩ける隙間がある町だと気分よく暮らせるんだなということがわかってきて、そういう場所を拠点に暮らすのはいいなと思うようになってきました。またインターネットを介した情報環境も良くなってきて、ネット環境があればどこでもいいや、と思えるようになってきたのも大きいですね。
そして29歳の時に富山市に来ることになりました。会社の異動で突然だったのですけど、富山での暮らしが結構身体になじんだんですよね。また、富山や他の地方で触れることになる新しい「田舎」の形に触れて、これならもっと自分の場所を作るためにも踏み込んでみていいのではないか?と思うようになったわけです。
これまで田舎といえば閉鎖的な組織に組み込まれるのだろうという意識があったのですが、人口減少がいち早く進んでいる地域では新しい地域の形を求めているんじゃないか?ということが少しずつ見えてきました。
こうやって自分の育った環境から考えてみると、単純に都市を否定するだけでも生きていけないし、だからといって田舎にどっぷり浸かることもできず、結構悩んでいたなあと今は笑って振り返ることができます。
ただこれを半端だと切り捨てるのではなく、自分が大事にしたい感性ゆえの悩みであると捉え、その感性を大事にできるのは自分だけなんですよ、と言うことはみなさんにお伝えしたい。こんな感じで振り返ってみると面白いですよ、きっと。
富山から氷見へ、地方都市から地域へと踏み込むためにどんな段階を踏んでいったのか、さらに具体的に書いていきます。
→移住時に考えたい、生活スタイルの異なる5種類の地域特性|地方型フリーランスの働き方(3)